「ヤンキー先生」として知られている元自民党の義家弘介さんは政界を引退することを支持者に伝えました。
そんな義家弘介さんについて調べてきたので紹介します。
義家さんの嫁はヤンキー先生時代の生徒?!
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義家弘介について
・プロフィール
・義家弘介の生い立ち
・義家弘介が「ヤンキー先生」教師になった理由
・義家弘介が高校教師から政治家の道に進んだ理由
義家弘介について
プロフィール
名前 | 義家弘介 |
出身 | 長野県長野市 |
学歴 | 明治学院大学法学部 |
前職 | 高等学校教員 |
所属 | 自由民主党 |
義家弘介は、元高校教師という教育者としての経験や視点を生かして、政治家としての活動を展開しました。
政治家としては文部科学大臣政務官、文部科学副大臣、自由民主党財務金融部会長、法務副大臣、衆議院法務委員長、衆議院文部科学委員長を歴任しています。
義家さんの教育観は、特に不良生徒との関わりを通じて深まったものであり、彼自身の過去の経験が大きな影響を与えているそうです。
義家弘介の生い立ち
幼少期
義家弘介は1971年に長野県で生まれ、幼少期に両親が離婚してしまいます。
その後、義家さんは祖父母に育てられることになり、孤独感を抱えながら成長しました。
この家庭環境は、彼の人格形成に大きな影響を与え、特に父親や周囲の大人に対する抵抗感を生む要因となったと言われています。
中学時代
義家さんは長野市立若穂中学校に入学します。
中学時代はいわゆる「不良」だったそうで先生や祖父母に反抗的な態度を示すようになりました。
高校時代
義家さんは長野県長野東高等学校に入学します。
偏差値は50ほどで中学時代不良であった義家さんはあまり頭がよなかったと推測できます。
長野県長野東高等学校2年生の時に暴力事件を起こし中退します。
両親に絶縁されますが児童相談所を経て里親に預けられました。
その後、北海道の北星学園余市高等学校に編入します。
この編入が義家さんの
「人生を変える出会いになった」と振り返り、「少年時代に多くの失敗や過ちを繰り返し、そのたびに心ある人たちの指導と支えでやっと生きてきた」
と語っています。
義家さんは北星学園余市高等学校で出会った先生の影響で教師という夢が芽吹きます。
大学時代
明治学院大学法学部法律学科推薦入学します。
偏差値は55から57.5ほどです。
義家弘介が「ヤンキー先生」教師になった理由
義家さんの人生における重要な転機は、高校時代に出会った担任の先生との関係に起因しています。
理由は2つ
1つ目は高校時代
義家さんは喧嘩に明け暮れる不良少年でしたが、担任の先生の温かい指導と支えによって、教育の力を実感し、勉学に励むようになります。
このことによって明治学院大学法学部法律学科推薦入学することができ、次第に自らの進むべき道を見出したそうです。
2つ目は大学時代の事故
大学進学後も担任の先生との交流は続きました。
義家さんがオートバイの事故に遭い、重傷を負った時も、担任の先生からの励ましを受け、教育への情熱が芽生えます。
事故を通じて、義家さんは自らの人生を見つめ直し、教育の重要性を再認識することとなるのです。
これらの経験により、義家さんは教師として母校に戻ることを決意したのです。
同じような境遇にある生徒たちに寄り添う教育を実践することを目指し、単なる知識の伝達にとどまらず、生徒の人格形成を重視するものでした。
これが後に「ヤンキー先生」として有名になるきっかけでした。
義家弘介が高校教師から政治家の道に進んだ理由
義家さんは、高校教諭として教育現場での豊富な経験を持っていました。
しかし、特に不登校やいじめ問題に直面するとこれらの課題が教育現場だけでは解決できず、教育政策を変える必要があると考え始めます。
この経験から義家さんは政治活動を志すようになりました。
義家さんは、教育政策の重要性を痛感し、政治の場での改革を目指すようになりました。
教育現場に寄り添う政策を掲げ、具体的な施策を通じて不登校やいじめ問題に取り組む姿勢を示します。
これにより、彼は教育者としての経験を生かし、より良い教育環境を実現するための政治的なアプローチを模索しました。
2006年には内閣官房教育再生会議担当室室長に就任します。
これは安倍内閣が教育再生への取組みを強化するため、2006年10月10日の閣議決定により設置した機関であり義家さんにとって政治に関わる一歩となります。
その後、内閣総理大臣・安倍晋三からの要請を受諾し第21回参議院議員通常選挙に比例区で自由民主党から出馬を表明。
第21回参議院議員通常選挙で初当選し政治家としての人生を歩みます。